SNSプロフィールでずっと疑問だったこと
大学生の時にアメリカに留学していたんだけど、その時にFacebookやろうぜ!みたいな雰囲気になって始めてみました。その頃は友達でもやってる人はまばらで、特に国際色の強い人たちがやっているようなイメージでした。
留学に行って驚いたのは、初めて会った人たちが必ず言うことが「Facebookやってる?」でした。授業で同じグループになった人たちとは必ずFacebookでもグループチャットを作る。そんな日々が続きました。
ある日、同じ寮の友達から言われた一言が僕を惑わせました。
「なぜ、君のプロフィール画像は犬なのか?」
「え?」
「お前は犬なのか?」
「いやいや、俺は犬じゃないよ!見れば分かるでしょ」
「じゃあなんで自分の顔を載せないの?」
そんなこと考えたこともなかった。そもそもその頃やってたmixiでも自分の顔を載せる人なんてほとんどいない。名前だって自分個人の名前を載せることに抵抗があるのに。
その時ふと思った。もしかしてこれって何かあるんじゃないか?
いろんな人のプロフィール画像を分析してみた
その時からもう気になって仕方がなくなった僕は試しに日本のSNSサイトをぐるりと回ってみた。
日本のプロフィールに多い画像
- 風景
- 好きな芸能人、キャラクター
- 人影
- おもしろ画像
- ペット・動物
- 躍動感に満ち溢れた動き
まさにこれだった。これで日本人の8割をカバーできるはず。
逆に、留学していた時に出会った人のほぼ8割は自分の顔写真をプロフィールにしていた。自分だけ、もしくは友達や恋人と写ってる。
ちなみに、同じアジア系の韓国の人たちも僕たちと同様にプロフィールに自分の写真を載せる人の方が少なかった。文化的な違いなのか、それとも何か根本的なものなのか。
インターネットに対して懐疑的?
そもそもインターネットを得体の知れないものだと思っているのかもしれない。自分の投稿したものが全世界に配信されるということに恐怖を感じます。理解できないこと、分からないこと、自分の身元が知れ渡ることのリスクに対しては誰しも抵抗があります。
でもなぜ、留学に行った時の海外の人たちは何の疑いもなく自分の顔を載せられるのか。おそらく現実世界とつながっているかどうかじゃないかなと思った。
2ちゃんねるとかそういう類の匿名性で楽しむことから日本のインターネットって始まったんじゃないか。そもそもインターネットというものを単体の別の世界として捉えていて、現実とは違う二次世界のような空間。
逆に海外の人たちにとっては現実との橋渡しなのではないか?インターネットを通じて交流しましょうという「顔を合わせる」前提があるんじゃないか。ネットは手段であって、別の自分を演じる場ではないのかもしれない。
日本ではそういう考え方が浸透せず、そのまま二次世界として受け取られた。だから、裏の顔というか「もう一人の自分」として本音や普段言えないことを言う場所になったんじゃないか。
八百万の神様?
文化という視点から考えてみる。日本にはすべてのものに神様が宿るという「八百万の神」の考え方があります。
ゆるキャラとか、ハローキティやドラえもんなど有名キャラクターとかとにかく量産できるのが日本。アメリカのサウスパークとか超適当だから。笑
そういうのって実は日本古来からあらゆるものに対して生命を感じることができるという根本的な感覚があるんじゃないか。
だって、生卵ですら「ぐでたま」というキャラにレベルアップさせてしまうんだから本当にすごい。
美や生命を感じる感覚は他の国よりも抜けているのかもしれない。
逆に海外ではそんなことはない。そもそも他のことに対して興味がない。道にゴミを捨てるのも、部屋に靴のまま上がるのもお構いなし。全く、それを汚れているとも思ってません。文化の違いを思いっきり感じました。
靴を脱いで部屋に入ると、「珍しいね。綺麗好きなの?」とか言われました。
そこで感じたのは彼ら外国人の中で、モノに対して生命を感じていないのかもしれないということ。
日本だと、汚れたままの靴で家の中に入ると「家の床が可哀想」という“可哀想”な感覚を床にさえ感じてしまいます。申し訳ないと。ごめんねという気持ち。
だから自分以外の何かにも生命が宿っていて、感情がある生き物として考えているんじゃないか。
そこでSNSの話に戻ります。
そもそもネットのことを現実として捉えていないのであれば、その仮想空間で生かす自分の分身みたいなものが必要になる。わざわざ自分自身をさらけ出す必要性はありません。そこで登場するのがさっきのプロフィール画像たち。
もしかすると、その人のプロフィール画像からネットに対するスタンスや自分の性格が分かるかもしれない。「普段は考えてないけど実は心の中で思っていること」がプロフィール画像に反映されているかも、と考えてます。
メッセージアプリからも分かる?
だいたいの主流がLINEになりつつあるけど、ノルウェーに住んでる友達はSnapchatをめちゃくちゃ勧めてきました。
なにこれ?全然使ったことないんだけど。
そこでその友達に試しにLINEを勧めてみた。スタンプとか面白いかもと思ったけど、全然ノッてこない。あえなく僕が折れて、結局Snapchatを使うことにしました。
これ、ただのチャットアプリじゃない。自分の写真を送ってそこにメッセージを貼り付けるんです。渋々撮って送ってみると一気に相手のテンションが上がる。
やっぱり、現実での顔合わせが前提なんだ。
これで僕の疑問は確信に変わりました。
向こうの人たちは誰もバーチャルな世界で誰かを演じようなんて思ってもいない。自分という個人でコミュニケーションを取る。個人としての人間が尊重されてます。神様はイエスキリストだけ。世界がどうやって創られたのか、どう言う歴史の中で育ってきたのか。宗教も違えば歴史も違う。人種さえも肌の色さえも全て。
価値観と考え方がそもそも違うんだ。それをメッセージアプリで感じました。
僕たちがいるのは村社会なのだろうか
海に囲まれた日本には人種の違いとか価値観の違いってあんまりありません。そういう風に教育させている学校という存在もあるけど、どこかで自分だけ仲間はずれになることを恐れているのかもしれません。
同じ村に住む人たちの反感を買うことは許されない。即、それは死を意味します。
空気を読む必要がある。言わなくても分かるという境地がある。それが大事にされています。みんなで渡る赤信号なら怖くない。
もしかすると、そんな村の息苦しさから抜け出すための場所がネットなのかもしれません。
プロフィール画像に込められた思いは、その人個人にしてみれば大した意味もないことかもしれない。
でも、プロフィール画像には日本独特の文化と考え方、価値観、仏教、いろんなものが詰まっています。
そんな気がしている。そして、今この考えが海外からの移民増加や血筋が変わるという本当の意味でのグローバル化で崩れようとしている。今後どうなるか。僕はこれからもプロフィール画像をしばらくウォッチしていくことにします。
追記 1/27
沢山のコメントありがとうございました。
コメント欄で論文や本について教えて頂きましたので紹介させて頂きます。
- 作者: 柾悟郎
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1995/12
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 86回
- この商品を含むブログ (19件) を見る
言語から見ても1人称( I ), 2人称( you ), 3人称( その他大勢 )というところも実は気になっていたので、ここで言及されていますね。この本も読んだことがなかったので読んでみたいと思います。ありがとうございました。